🎸”蔦音次郎”のギタ・キチ・日記

気まぐれギター演奏の日記を書いて更新して行きます。

音次郎物語-12.お爺ちゃんの金魚屋さん・・


先ずは、私のギターを聴き乍「音次郎物語」読んでネ❣ 


前回の続きです。読んでいると「哀れで可哀そう」と思わないでネ・・
昭和の団塊の世代の人は、もっと貧乏な苦しい生活も有ったのです。
このくらいは、当時では序の口と考えればよい。
「上みりゃ限り無し!・・下みりゃ限り無し!」は現代社会でも同じなんです。 
それでは音次郎物語ー12話の始まりです。
音次郎の小学5年生の途中辺りから、末吉迄の通学です。
雨の日以外は馬場町から末吉まで歩きで通います。
長い道を一人テクテク歩くのです。
小学校6年生迄歩きました。
末吉小学校まで歩いて約1時間です。

地図参照 馬場から末吉小学校(昔の地図では有りませんが、道は変わっていません)


 末吉小学校に校旗(’1960)

1960年の末吉小学校の写真と当時の住宅


お婆ちゃんが早起きして、ご飯を炊いて朝食の準備をしてます。
内輪で釜土の火をパタパタ煽る音が聞こえます。
お爺さんは庭に出て、天と地を拝んでいました。
元気に登校していました。
転校して1週間は学友の仲間に入れなかったですね。
徐々に学校の友達が増え,お喋りが出来るようになりました。
音次郎は両親と離れて、爺ちゃん婆ちゃんに大事に育てられるようになったのです。
学校の帰りは、お爺さんの仕事場に寄る事もあります。
お爺さんは東寺尾の公設市場の横路地で露店の仕事をしています。
恐らく鶴見に住んでいる人は、今でも私と同年位か、それ以上の人は、
「ぁあ~、あのお爺さんあそこで金魚やっていた~」と分かるでしょう・・・

絵地図:鉛筆で丸く囲んだ箇所に注目:
*元の下駄屋の店 *ここの場所と書いてあるのが露店の場所(左が公設市場
神明社の近くが爺さんのバラック屋敷


夏は金魚です。
この露店は小さい子供たちが金魚すくいを楽しめたのです。
タライが3個置かれ、其処に金魚すくいの和金が泳いでいる。
子供たちが金魚すくいのワッカを買って楽しみます。

(イメージは借り物のイラスト図絵です。)


障子紙で金魚をすくうのですから、水に濡れれば紙が破けやすくなっている。
子供達はワッカの紙が破けても、少し無理しても金魚をすくっていましたネ。
10円を払って、ワッカを買います。すくった分の金魚を貰える仕組みです。
但し金魚は和金のみです。(和金魚が卸値が安かったんだと思う)
琉金や出目金、シブ金、などは別料金で買います。


他に大きな木枠にブリキ板で作られた水槽には、値段の高い金魚が泳いでました。

この木枠水槽は、常にその場所に固定され移動はしません。
当然、許しを得てますので、店終いの時は木枠水槽の蓋を閉めて家に帰ります。


翌朝、木枠水槽の蓋を開くと、金魚が数匹は死んでいることが有ります。
お金の高い金魚が死んでしまうと、お爺さんはガッカリして沈んでしまいます。
金魚の水槽の水は公設市場の外水道から貰っていました。
水槽にカルキ液を入れていたと思うが・・

酸欠とか、夏の暑さも金魚の死に繋がります。


公設市場の帰り際に奥さんたちが金魚鉢と共に出目金や琉金を買ってくれました。
お客さんはボチボチ金魚を買いに来ていました。
朝顔型のアクアリウムも売れました。


この場所は、また子供たちの遊び場にもなっていたのです。
賑やかな横道で子供は、馬乗りとか、ベーゴマや縄跳びで遊んでしましたね。


学校の帰りにお爺ちゃんの仕事場に寄り、夕方にリヤカーを押して一緒に家に帰るのです。
リヤカーを曳きながら爺ちゃんは、島倉千代子さんの歌だと思うが
「りんどう峠」を爺ちゃんは歌いながらリヤカーを曳いていました。
リヤカーの荷台は金魚の入ったタライ2つ、ガラスの金魚鉢、金魚すくいのワッカ、
バケツと長いホースなどが荷台に積んであります。
このリヤカーは夏場は冬場より積み荷が少なく、
音次郎もこの荷台に乗ったり降りたりして
爺さんと話しながら夕焼けの道を馬場まで帰るのです。
馬場の手前の貯水池の近くで愛犬エスが迎えに来て待っています。
兎も角、エスは利口なんです。

(イラスト写真はイメージを表したものです)
バラック屋敷に着くと、お婆ちゃんが夕食の支度をして待っています。
お爺ちゃんは、魚が大好きで食卓は焼魚や煮魚がメインでしたネ・・
爺さんは晩酌を必ず一杯、ブツのマグロの刺身は毎日お酒のツマにしていました。
露天の隣の東寺尾公設市場の魚屋さんから、いつもの馴染みで、
ブツの鮪の刺身の美味しい部位を確保してくれるのです。
食事が終わると爺さんは今日の売り上げ計算をします。
商人用の丈夫な生地の前掛けで作ったお財布袋からゴザの上に小銭を広げ💰を数えます。
(バラック生活では畳は無く、代わりにゴザを鋲で止めていたんですよ)
海苔問屋の主人でしたのでソロバンは得意でしたね!
5玉の大きなソロバンで、音次郎のオモチャとして幼年期は車として遊んでましたね。・・
金勘定といっても露店の金魚屋です。広げた小銭は5円、10円の集まりです。
あれで、どの位の売り上げがあったのか?・・・


金の勘定をしている間にお婆ちゃんと、金魚のワッカの障子紙貼りをします。
お婆ちゃんが作った糊をワッカに塗って、ワッカの大きさに切った障子紙を貼り付け、
ワッカの針金に障子紙を指でヨジリながら貼り付けます。

 

 夜は金魚すくいのワッカ作りをしました。(イメージ写真)

これが明日の金魚すくいの事前準備です。


そして9時頃には蚊帳に入って寝ます。
ラジオでは三橋美智也の歌や春日八郎の「おとみさん」などを聴いていた。
浪曲も好きで爺さん婆さんはラジオかけてましたよ。 


水槽の金魚が少なくなると問屋に買い出しに行くのです。
金魚の仕入れは大口商店街(子安)の金魚問屋まで行って仕入れてきます。


私、音次郎・・本来なら両親と生活しなければならない年ごろ。
病気で両親と別居して、爺ちゃん婆ちゃんに暫く暮らしたのです。
入院生活だから収入も無く、(当時は民生の世話を受けていたのでしょう・・)
本来なら・・・・・
学校の勉強は塾へ通うとか、勉強用の本を買って貰って、勉強するはずなのに・・・
これが出来なかったのです。・・・・  
頭の悪さは勉強不足なのでしょう‥(笑い)


長々物語を語りましたが、次回は音次郎物語は冬の焼き芋のお話です。

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