🎸”蔦音次郎”のギタ・キチ・日記

気まぐれギター演奏の日記を書いて更新して行きます。

音次郎物語⁻17 癒しの場所を求めて・・


Fantasia Original (j.Vinas) ivy-196.(独創的幻想曲)を弾いてます。
中学2年生(1961~2)タイムスリップとして巻き戻しします。
学校でも1クラス60人いました。
クラスは14クラスありました。
Aホーム~Nホームと言う洒落た呼び方です。組呼びではありません!
1クラス60人ですから教室は賑やかです。
教室の席も、背の低い人や黒板が良く見えない人は前の席に座るように決めてある。
ところが、勝手に生徒が席を決めてしまう有様だ!
頭の良い勉強好きは前の席に座る。
頭の悪い勉強嫌いは後ろの席に座る。後ろの席に座るのは大方悪ガキでした。
私も後者の口で、後ろの席で目の届かない窓際でコソコソ隠れていた。
窓から外を眺めて黒板なんか、見ていない・・・
頭の良い生徒からテスト回答を盥回しに手渡し、インチキするのが悪仲間。
見つかると廊下に立たされお仕置きを食らう。・・
これが団塊世代の日常茶番劇で・・
団塊世代の人は・・「昔、そういう人いたね!」と分かると思います。
「貧乏暇なし」で音次郎は働きました。
学校が終わると夕刊の新聞配達をしました。
新聞店に出向き、まづ配達先のチラシの折り込みをします。
そして約100部数ぐらいかなぁ~(記憶なし)
自転車の後部荷台に新聞を縛り、目的地近くまで自転車で新聞を運ぶのです。
配達目的地のある場所で100件の新聞をタスキにセットして、
1件1件の家を歩いて配るのです。配り終わると午後6:00頃です。
そして自転車の置いてある場所に戻り、新聞店の戻り、報告して自転車を返します。
ここで仕事は一つ完了しました。
次はお爺さんの露店の仕事の片づけを手伝います。
リヤカーに荷を積んで東寺尾~馬場まで爺さんのリヤカーを後部から押して帰ります。
もう、午後7:00 こんな生活は慣れたものだ! 
辛いという気持ちは無かったですね。
この時代では自動車もバス以外は、殆ど走っていませんでした。
安心してリヤカーを押して帰れたのです。・・・
家では新しい伯母との生活です。
夕食後に伯母の肩もみをしていた。
按摩揉みは疲れましたね・・
勉強なんてやる暇もないのだ!・・頭の悪さは、勉強していないからだよ!・・
学校休みの日は、友達と遊んでいましたね・・
こんな時代に生きたんだから諦めてます。
生活環境が悪い場所で育ったのだから・・と悩みもしましたヨ・・
他の生徒と違うところは、両親と暮らしていなかったことです。
これは人に言えない辛さが有りましたね! 苦しかったです。
そんな時、私を癒してくれるのは広い場所なんです。
広い空を眺められる場所。大の字になって空を眺めるのです。
辛い事、悲しい事、一気に飛ばしてくれます。
天空を見上げて夢が膨らみます。
広い場所とは・・
寺尾の三ツ池公園と馬場の貯水池水道タンクのある場所なんです。
当時の三ツ池は小高い芝生の丘で大の字で空を見て、夢を描いていました。
三ツ池公園は幼い時から来ていた場所で、癒される公園です。

      

(三ツ池公園にて・・)


水道タンクも一面が芝生で、誰にも邪魔されることなく、
大の字に寝そべり、天空を見て暖かい日差しに照らされ、夢と希望を描いていた。
この水道タンクの広い小高い場所から横浜市が一望に眺められました。
富士山も見えましたね。そんな癒しの場所なんです。

    

     



      

中学生時代の写真(鶴見区馬場:貯水池水道タンクにて)

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