🎸”蔦音次郎”のギタ・キチ・日記

気まぐれギター演奏の日記を書いて更新して行きます。

音次郎物語-7.親子3人で幸せを感じた日・・


Sonata Clasica. video-100.
「ソナタ・クラシカ」を聴き乍BLOG読んでねぇ~

「人生いろいろ」島倉千代子さんが歌っていましたね。
私、音次郎も色々有りました。
まぁ~よくぞ、ここ迄生き延びてきたと感心している。・・忍耐でしょうか?・・


~前談~
「昭和の人間は古くてぇ~」なんて言う奴がいるが、
そんな奴だってそのうちに古くなるんだよ!
自分も今の時代に付いて行こうと頑張っているが、なかなか今の人には追い付かない。
最近、ガラ携~スマホに入れ替えた。・・
多少私はPCを弄っているので、少しはマシだ!
丸っきりスマホを持たせても操作できない年寄りも多々います。
最近の年寄りは何処かへ行って行方不明になる老人がいるでしょ!
・・
スマホで位置情報が分かるようで、
便利な面も有るようだね!


あの狭いスマホでパカパッカ活字を打つのは無理!
現代人はスマホの扱いは見事だ!‥あの素早い指の動きは頑張っても真似できません!
今や情報量が多いので、今の若者は大変頭が良いですネ。
羨ましい・・我らの時代は、情報量は少なく、物知りの知識は薄かった気がする。
前談の話はここまで・・



⁂音次郎物語ー7話の始まり・・・音次郎の記憶に基づいたものです。
前回は昭和32年頃の話を書いてみました。
その続きは・・まず少し親父の話から・・
子供(弟)の死から少しずつ立ち直って下駄屋商売に戻り、
家の中は少し明るさが出てきた。
しかし親父の頑張りは長く続かなかった。
理由は簡単。下駄屋に或る日、戦友が探し求めて訪ねて来たのです。
これが大番狂わせしたようです。
何故かと言うと戦地で知り合った戦友と誓いの契りを交わした仲と聞いている。
戦地で戦友として左腕に、戦友の名前を彫った入れ墨を互いに入れた仲間です。
戦友同士で自分達で彫り入れたと聞いている。
(下手な小さな名前が書いて、痛い思いして馬鹿なことをやっているネ)
その仲間の一人が訪ねて来たのですから・・・・
確かに風呂屋で見た親父の腕に入れ墨らしきものが子供ながら見ています。
それが戦友の名前とか・・母の話だと腕に2人の戦友の名が彫ってあったとか・・
うち一人は戦地で亡くなっていて、もう一人が生き延びて訪ねて来たようです。
親父は戦友と会えて嬉しかったのでしょう・・
戦友と戦地の思い出に酔い、大酒飲みの日が暫く続いたようです。
当時は誰もがお金に困っていた時代です。
その戦友もお金に困って、お人好しな親父は気持ちよくお金を貸したのが運の月!
お金を搾り取られ、その後戦友は行方知れず⁉・・消えてしまったようです。
いくらお金を貸したのかは母は教えてくれませんでした。
下駄屋商売もいよいよ金が無く、母の着物を質に入れる始末だ。
母と私を連れて、何度か質屋通いした記憶は子供ながら覚えている。

質屋は昔から有った金替え商売(写真は借り物です)イメージ絵
母は終戦前は海苔問屋のお嬢さん育ちで高価な着物を幾つかタンスに持っていた。

母の娘時代

その着物を質屋で💰に変えて、生活に充てていたのです。
折角、お酒と縁を切ったと思えば、またまた酒浸し!
親父は婿養子で母と結婚しているので、
母の祖父はカンカンに親父を叱って「出ていけぇ~‼」の騒ぎだったことも記憶にある。
親父が夜中に家出した事が2回ほど有った。
駄目親父でも其処は夫婦です。
下駄屋のお店を閉めて母と音次郎を連れて、親父を探し回りました。
港北区で親父を見つけました。「あそこに父ちゃんがいるよぉ~」と母に伝えた。
自転車を親父が押して歩いているのです。
何とか母が親父を説得して、機嫌を取り戻し親子3人で大倉山まで歩きました。
大倉山では梅が開花していて、梅のお花見の季節でした。
母は親父にお酒を買ってきて親父に与えました。
この時は辛さも有ったが、お花見をし乍ら親子3人で最高の幸せを感じた気がする。
花見の後、大倉山から綱島へ行って綱島温泉で楽しんだ。
そして綱島から臨港バスで母と私がバスに乗りました。
駒岡の田舎をバスが走ると親父が自転車で走っている姿を見つけ、
すぐさまバスの後部座席に移動しました。
親父は必至で自転車をフルスピードでバスを追います。
私も嬉しくて、後部座席から後ろ向きで手を振り、はしゃぎましたネ。
親父も自転車から片手で手を振っていました。
段々と親父が小さく遠くに離れて行きます。
あの光景は今でも忘れません。一番幸せを感じた一幕でした。
無事に東寺尾の下駄屋に辿り着き、その日は家族円満な一日の出来事です。

親父と母:下駄屋にて・・



音次郎物語ー第8話をお楽しみに・・

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