🎸”蔦音次郎”のギタ・キチ・日記

気まぐれギター演奏の日記を書いて更新して行きます。

音次郎物語ー8.ドン底時代・・の始まり・・


Ferdinando Carulli: Guitar Concerto in E minor, 'Petit Concerto de Société', Op.140, Pepe Romero
ファルナンド・カルリの作品をペペ・ロメロのギターを聴き乍読んで下さい。
テレビでみるNHK「ファミリーヒストリー」とか、以前テレビで放映していた
「波乱万丈」と題した番組も有りました。・・
芸能人だって過去を掘り起こせば、色々と人其々の苦難な道も有れば、
裕福に何事も無く歩んだ人もいます。
裕福に見えても、裏は裕福で無い人もいるんですよ・・・
人生の生き様は、人其々違うのです。
考えてみれば、自分の人生だって苦難な道を辿って来ています。


貧乏生活でも、なんの恥じることは有りません。
昔は、物乞いは沢山いましたヨ。
其れでも徐々に豊かになって生活を取り戻したのです。
当時の人は、努力と頑張りなんでしょうね。
自信を持って今を元気に明るく過ごせば良いのです。
「昔貧乏、今は平凡な貧乏」・・・其れで良いのです。
「無理して金持ちになる必要はない!」・・と考えるのはどうでしょうか?・・
・・・
そんな音次郎の物語8話の始まります。
人生大番狂わせは弟の死と親父が戦友思いで、お金を持ち逃げされた戦友・・
ここから💰文無し生活が始まりました。
母の着物を質屋でお金に換えての生活。
何とか下駄屋商売で儲けようと、チラシを配って下駄の大安売りを試した。
(写真は蔦屋;右は親父、左の人は下駄の同業仲間です。)

チンドン屋まで頼んで下駄屋の店前でチンドン屋がチンドン・チンドンと賑わった。
このチンドン屋は記憶にある。(写真は借り物でイメージです。)

お客より子供がチンドン屋見たさに店に寄って来るのです。
恐らく下駄の大安売りは売上げどころか赤字だったと思います。
もう、下駄の時代は薄れて、靴の時代なんですね。
商売の切り替えが下手だったのでしょう・・・
お金も底をつき、母の親(祖父母)が心配して、
祖父母迄が娘と孫の為にお金の工面をする始末で
爺ちゃん婆ちゃんは着物を質に入れたとか・・戦前は大旦那と呼ばれた祖父。
戦争貧乏でどれだけ悔しんだか、・・・・私にも想像できます。
「なんで、あんな馬鹿な戦争をしたのか?・・」独り言ブツブツで腹を立てていました。
・・・・
とうとう下駄屋の家と土地を安く売る始末になってしまった。
私はその頃には小学校3年生になっていた。
一時的にお爺さんの家に私だけ引き取られ、
爺ちゃん婆ちゃんと一緒に過ごした記憶が有る。‥
また、私は両親の元に戻り、いつもの生活が始まる。
私の学校生活は
東台小学校を1年生まで通い、分校ができて寺尾小学校を2年~3年生迄通った。
いよいよ下駄屋の倒産だ!・・
下駄屋の売り払った僅かなお金で東寺尾の町を離れ、末吉町に引っ越しした。

(地図は鶴見区です。東寺尾、末吉、馬場町、など地図に記載されてます。)参考地図


当然乍、小学校も転校です。末吉小学校4年生頃だったと思う・・
何故末吉に越したのか?・・お店が安く借りられる話だったようです。
親父は戦地で中華料理を見よう見真似で覚えたと聞いている。
ラーメン店を開いたのです。
(写真は借り物です。イメージです。)


末吉の町に1戸建ての借家の生活が始まりました。
借家からラーメン店迄は距離として1Km有ったと記憶します。
学校は借家から300mと近間に有りました。
この小学校は6年生まで通い、卒業しましたね。
友達もできて、私も明るく元気に育ちましたが、心の奥は何故か寂しかったのでしょう・・
・・・
学校の帰りにお店に寄って、親父の作ったワンタンが好きで、これが美味しかった。
店は夜の8時まで営業していた。
私は学校が終わるとラーメン店に寄り、暗くなった夜道を歩いて帰った思い出が有る。
帰り道に大学芋を売る店が有り、大学芋を食べながら家に帰るのです。


ラーメン屋は儲かると思った親父、そう簡単に繁盛するわけが有りません!


ここで、また不幸がやって来ました。
ラーメン屋の前に道路挟んで総合病院が有ります。
この病院が不幸を呼んでしまったのです。
昔の事だから、病院も管理は適当!
病院の患者がお昼や夜にラーメン屋に注文が入るのです。
病院の前が親父のラーメン屋。注文が入って喜ぶのは親父。‥バカみたい・・・
親父は注文を頼まれ、喜んで病院に出前をするのです。
生活は苦しいながらも、何とか食べていけた。
小学5年生頃に親父が病院で結核菌をうつされたのです。
当時、結核は流行した危険な伝染病。
一緒に生活をしている母にも親父からうつり、幸い音次郎はうつらなかったのです。
それを知った祖父母は心配して、即、私、音次郎を再びお爺さんの家に引き取られ、
親父は結核病院に入院、母は軽かったようで入院はしましたが、退院も早かったです。
結局、ラーメン店は閉店。
私は鶴見のお爺さんの家(馬場町)から末吉の小学校まで通学したのです。
バス通学したり、歩いて通学したことも有りました。(地図参照)
小学6年生の卒業まで末吉まで通学したのです。

(写真は実物:末吉小学校6年生運動会=音次郎は左側)
結核は当時は治す術が無く、日増しに重症化しています。
結核患者は日本中で大流行した様ですね。(コロナも怖いが結核も怖いです。)
お爺さんは、「孫に結核をうつさせてはならない‼」と言う事で
絶対親父との面会はさせませんでしたね。
親父の結核は完全隔離状態で、親父との面接は完全遮断されました。
不幸は重なるもんです。これから先のお話・・どうなる事か?・・
音次郎物語ー9話は次回・・実話を記憶頼りに語っています。
記憶によるもので、多少、記憶がズレる場合が有ると思いますがご了承下さい。

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