🎸”蔦音次郎”のギタ・キチ・日記

気まぐれギター演奏の日記を書いて更新して行きます。

音次郎物語-15. 憩いの場所・・三ツ池に思いを寄せる・・

なんだかんだと、11月は終わってあとチョイで12月に入る。
1年は本当に早い❕・・・早過ぎる❕・・アレグロ・ヴィバーチェだね?
となると、またマイ・ギターを挿入したくなる。
今日は「11月の或る日」と「アレグロ・ヴィバーチェ」を最初に聴いて物語を語ろう。

11月の或る日(ブローゥエル)

バーチャルオーケストラとギターによるアレグロ・ビバーチェ
どうだろうか?・・この2曲、気に入ってくれただろうか?・・
なんせ趣味を楽しむギター弾きですから、Blogでギター演奏の人気取りしてます。
(お笑いです、愛嬌)
それでは、音次郎物語15話を語ろう・・
話は1960~61年に遡ります。
私の母の姉(伯母)は横浜の生麦に住んでいました。
伯母は長唄の師匠で、お弟子を抱え、その月謝で生計していました。
伯母の子供は壱男参女ですから、生活も大変だったと思います。
伯母の旦那は前回でも語りましたが、戦死して、伯母の女一貫での子育てです。
長男は馬場のお爺さんと暮らし、当然私と寝ぐらは一緒の馬場のバラック小屋です。
クリスマスとか、お正月はお爺さんやお婆さんと生麦の伯母の家に遊びに行きます。
お爺さんは生麦迄、バス、電車は使わないで歩いて行きます。
子供の足ですから、馬場から生麦迄は凄~く長く歩いた気がします。
馬場~東寺尾~二本木を右に曲がり花月園に進み~京急花月園駅から小道で京急生麦駅へと、
・・・・恐らく8km~10Kmあったかなぁ~・・
「健康的で歩くのが一番」と進んで爺さんは歩くのです。
伯母の家でクリスマスの時は、ケーキを食べてきます。
この時代のケーキのクリームは今の様に美味しいものではない!
ギトギト油のクリームで具合が悪くなるケーキです。
寿司でできた3段のケーキは美味しかった。これは寿司屋さんで注文したようです。
お正月は伯母の家に行くとお年玉を貰えて、これが嬉しくて、嬉しくて・・・
この時代で小学校6年生で100円ぐらいのお年玉ですよ。
それでも、100円のお年玉、ここに来ないと貰えなかったのです。
御馳走も沢山作ってくれて、食べたことのない大きな海老をいつまでも眺めていた。

  

小学校6年生:伯母の家でお正月。雑煮を食べる音次郎。海老を眺める・・

爺ちゃんとお婆ちゃん、従姉のH姉ちゃん。

こうして新年を迎え、中学生に進みます。
卒業式は両親が来ることが出来なかったのは寂しかったです。
他の生徒たちは殆ど、来ていましたからね。
それでもお婆ちゃんが卒業式に来てくれました。
父親とは面会は出来ず、結核もどんどん悪くなってきていたのです。
母も父とは別の病院に入院してました。
母はお婆ちゃんが、私、音次郎を連れて会いに行きます。
お母ちゃんは息子の元気な顔を見て、凄く嬉しかったようで
帰るときも母は涙をこぼしていました。
それでも、滅多に連れて行きませんでしたね。
マスクしての面会でした。
両親と別に暮らしていると、僅1年でも長い1年に感じて、
親子でも徐々に音次郎も他人行儀になっていたのです。
お婆ちゃんが言う‥「おかあちゃんは、もうすぐで退院できるから辛抱しな!」と
私に言い聞かせます。 
私も親との生活が出来ない事に、寂しさが表情に現れていたのでしょう・・
いよいよ中学校へ進学します。
今度は寺尾中学校です。

   

            (母の病院にて・・中学1年生)



ここは寺尾育ちですから、学校内では友の仲間が沢山いました。
学校の通学も近所の仲間と一緒に通学です。
寺尾中学は環境の良いところで、学校の校庭の下は三ッ池公園です。
この三ッ池公園は幼年期から、遊びに来ていた公園です。

  三ッ池公園にて(小学1年生?)

親しみのある三ッ池公園です。この公園は中学生になっても、
この芝生の同じ場所で寝転がって、思い更けていましたね。
この三ツ池公園と中学校の直ぐ横に三ツ池病院が有ります。
この病院に父ちゃんが入院しているのです。
眼と鼻の先に父ちゃんがいても会う事は出来ません。
今はコロナ感染で大騒ぎしましたが、コロナと同じように、
この病気もそれ以上に恐れられた感染病です。
戦後に大流行したのが肺病(結核)です。・・
子供ながら、やりきれない気持ちが有った。
この事は、生徒仲間に知られない様に辛い思いをしましたね。
この事実を知ったら、恐らく友達は私から逃げてしまうでしょう・・
しかしお爺さんが絶対面会させなかったから、私も感染しなかったのです。
この辛さは中学卒業式まで続きましたね。


学校の校歌は直ぐに生徒手帳を持たされ、手帳に校歌が書かれてます。
その手帳で歌詞を何度も歌って練習した記憶がある。
寺尾中学の校歌は歌詞が好きで、歌っていましたネ。

この中学の3年間も色々有りました。
僅の3年間でも、この3年は長い、長~い3年だったと思います。
次回の音次郎物語は「バラック屋敷とさようなら」を語ってみよう。

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