🎸”蔦音次郎”のギタ・キチ・日記

気まぐれギター演奏の日記を書いて更新して行きます。

音次郎物語ー23最終回 渡り鳥の落ち着く先は?

ギター協奏曲 (ギター:ペペ・ロメロ)

Ferdinando Carulli (1770-1841): Guitar Concerto in A major Op. 8a - Pepe Romero
YouTubeギター協奏曲を聴き乍、読んで下さい。・
最終話です。
明日は幼い頃に亡くなった弟の命日です。
昭和29年1月31日が命日です。あれから68年の歳月が経ってしまいました。
私も幼年期で弟の記憶は、少ないです。そして弟の写真は数少ないです。


今回の23話で音次郎物語を終了いたします。
長い間、この物語を読んで頂き有難うございます。
記憶に頼った話で、まんざら嘘ではないが、話に抜けている箇所も多々あった。
話を語れば、100話、1000話と続いてしまいます。
どうでもよい話を長々してもしょうがないです。
今日は大雑把な話に纏めて終わりにしたい。


1967年~を簡単に書いてみます。
前回はお婆ちゃんと親父の亡くなった話を語りましたが、
その後、お婆ちゃん(77歳)から3年後に追うようにお爺ちゃんが亡くなった。
お爺ちゃんは1968年に(82歳)まで頑張った。

お爺さんとお婆ちゃんの蔦音時代の写真👆


この当時の葬式は自宅で執り行うのです。(今は葬儀会館ですが・・)
当時は玄関から祭壇迄の間は白と黒の垂れ幕を張るんですよね・・
お婆さん、お爺さんの時も海苔問屋の関係者が弔問に来ていた。
お爺さんとお婆さんが亡くなり、父ちゃん亡くなった時より悲しかったですね。
お爺さん、お婆さんに子供の頃から一緒に生活して大切に育てられたからです。
両親との一緒の生活が短かったのが影響しています。
今思えば、昔の出来事がふっと思い出される。
振り返れば、オギャァと生まれて20年間は苦難な生き方をして来たが、
何とか貧乏に耐え忍んで生きてきました。
考えれば私は小学生の時から、お爺さんの露店商売の手伝いで働いていたんです。

1967年ギターを手にお爺ちゃんと・・👆


1967年頃に私はギター教室に習い始めている。
ギターとのお付き合いも長い。
一人っ子になった時からの癒しとしてギターが好きになったのでしょう・・
職は若い時に会社を3回変えました。
最初の図面屋も2年で退職、その後、友人の勧めで大田区の町工場に就職。
約7年務めた。この会社は学校の理科実験教材を作る会社で、
親会社は誰もが知る有名な会社です。
毎年企画される慰安旅行は遠方の観光地で楽しい旅行を楽しみました。
時代は東京オリンピックを境にどんどん進化発展して行く。
大阪万博も行きました。👇

   

              2回目の会社👆       金毘羅社員旅行👆


母も宝石店に勤めて良い実績を上げ、給料も跳ね上がり安定した生活が出来上がってきた。
私も早い22歳の結婚だった。👇

 

共稼ぎで、細々と暮らして来ましたよ!
この時期ですかねねぇ~・・高度成長期で日本がドンドン発展して行き、
地方にも大企業が進出したのは・・
日本列島大改造論の田中角栄さんの時代かな?
(1972年)昭和47年頃高速道路、新幹線、地方工業化・・
一瞬に私も頭が閃きました。ここで思い切ったのが先々に幸運を呼んだのです。
栃木の嫁の実家に遊びに行ったときです。
この田舎に大きな雑木林を切り砕き、会社の工場がドンドン建てられている!
横浜にいても安サラには家は絶対建たない!・・と頭が回転しましたヨ!
家を建てる計画も夢に描いていたので、このチャンスを逃さない!と直感した。
26歳にして大都市から栃木県への脱出です。(1974年頃:26歳)
親戚や母からも反対されたが、押し切りました。
母は宝石店の努めていた仕事も有り、代わりの人が来る迄、横浜に残った。
栃木の田舎町に引っ越し、戸建てアパートを借りて職安で職探しをした。
ホンダやコマツ、松下、神戸製鋼、等の大企業の進出です。
それに伴う関連企業も続々進出、
更に日産の上三川への工場進出に伴う関連会社が続々栃木県に来たのです。
この時期は会社の募集が沢山あり、簡単に会社が見つかった。
大会社の関連企業では有るが、簡単な面接で入社出来ました。
条件が良く、即決めました。運が向いてきたと思いましたね。
会社の社員寮と社宅が4棟有り、社宅入居料が1ヵ月1500円で2LDKの風呂付です。
ここで、頑張れば家を建てる計画も夢でない!・・と7年間社宅住まいをしました。
この地方移住で人生が大きく発展した。

  栃木での会社勤め

田舎の2件しか建っていない場所に地主との交渉で土地を借金で購入。
社宅賃の月1,500円が効いている!
入社した会社も残業と休出で大忙しが何年も続いた。
やっと家を33歳で新築する夢が叶ったのです。
大きな家ではないが、母の好みの日本式の家が完成し、母を栃木に移住させた。
幸いに女房の実家に腕利き大工がいたので、その大工に建てて頂いた。
当然、返済に無理のない住宅ローンを組んでの新築です。

母の夢を叶えた。            母と茶の間にて・・
床の間と仮書院風にする👆

 

母は娘時代に家元から生け花の指導を伝授され資格免除を持っていた👇

他に生け花伝授らしき絵入りの巻物が数巻有る。            

塀工事中の玄関前で・・


徐々に生活は平凡ながらゆとりが出来た事が実感できた。
この土地に住み着いて彼是48年になる。
もう完全に栃木の人間になってしまった。
はじめは周辺が畑だらけの土地で今や住宅が沢山建てられている。
ここに住んで古株の住民になってきた。


もうこれ以上に、物語を書くのは控えるが最後に母は10年前に82歳で亡くなりました。
亡くなった時期は、区画整理で2度目の新築が計画されていた。
私は母の部屋を間取り図に書いて、病の母に、「ここがおふくろの部屋だよ・・」と
間取り見取り図を見せてやった!「生きているか?わからないよぉ~」と母が口に出した。
「だいじょうぶだから元気だしな!」と励ましたのだが・・
しかし2度目の新築(上棟式)の1か月前で母は亡くなった。
母は27年間、栃木で一緒に暮らしました。
母には新しい2度目の家でも一緒に暮らしたかったです。

2度目の新築👆
今は子供3人で暮らしている。早く嫁を貰ってくれないかと‥待っているのだが・・
こればっかりは、本人じゃぁないと分からない・・・生涯独身になるかも・・・
早く結婚してくれよ!・・と・・女房も心配はしている。
これだからボケちゃぁいられないのです。
長い間、読んで頂いた読者の皆様‥有難う御座いました。


音次郎の引っ越し回数は生半端ではなかった。
10回は引っ越し生活が有ったと思う・・
記憶頼りに書いた昔話、音次郎物語1話~23話を終了いたします。



今日の早朝ウォーキングでお気に入りの「陽のあたる坂道」です。

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