🎸”蔦音次郎”のギタ・キチ・日記

気まぐれギター演奏の日記を書いて更新して行きます。

音次郎物語‐3 幼い弟の死(カルリ序曲)

音次郎物語ー3話
波瀾万丈の人生なんてよく言うが、これは長生きしている証拠ですよ。
そこには、喜びも有れば、悲しみも有り、寂しさも有る、
生涯、富に恵まれ、豊かな生活で
「悲しみも知らない」「喜びも知らない」なんて人はいない!
「貧しくても幸せを求めて暮らしたい」と日本人は努力したのです。
富が有っても幸せとは限らない!
十人十色の人が昔はいたんです。
今も昔も変わらないが、苦労したのが今の団塊世代の人達と感じる。
終戦後に生まれた世代とその祖父母や父母たちではないか?
団塊世代の人も今や老人となり、昭和の時代は今は古さを感じる。
平成、令和と時代が変わり昭和の人は追い付いていけないのです。
夢中になってスマホを覚えようと頑張っても頭と目が追い付けません!
家族に「スマホ教えて」なんて言ったって、
孫は逃げるは、・・息子も嫁も横向いちゃうと思いますが・・大当たり❣
昔の固定電話か・・ガラ携帯で十分だが年寄りはスマホを欲しがるのです。


それでは音次郎物語の始まりです。・・ギターを聴いて読んでネ・・

Overture (F.Carulli) 序曲(カルリ)
今日はチョット寂しい話・・を・・
音次郎はまだ幼稚園時代の出来事です。
2歳下の弟が4歳で亡くなりました。
微かに覚えているのが弟が危篤状態の病院の一室。
お婆さんに連れられて病院に駆けつけました。
この日は、雪が降っていた。
病院の病室は昔の事だからイメージとして薄く暗く、冷たい感じの病室でした。
昔の小学校の教室を8畳ぐらいにした部屋だった。(木造作り)
病室には達磨ストーブに大きなヤカンが乗せられていて、
ヤカンの口から湯気が立っていた。
透明ガラス窓を見ると、雪がボソボソ降り積もっていた。
あの窓ガラスから見た光景は忘れられない。静寂な雰囲気でしたよ。
寒さと言うより窓から見る景色は悲しい冷たさを感じる。
病室では母が涙を零して泣き止まない。
そして少し時間が経ってから病室で弟は静かに亡くなったのです。
号泣が病室を響かせた。・・親父も母も祖父母も病室にいた。
(命日:昭和29年1月31日)‥音次郎 当時6歳
・・・・弟の写真という写真は当時の事で3枚ぐらい有るのみです。

(幼稚園左二人目が弟の上にいるのが祖母。音次郎より右7人目)


これから先は大変な生き方を歩んできましたよ・・・
親父は酒に明け暮れる生活!・・仕事そっちのけ!
母は何とか生き抜くすべをしていたが、親父が仕事手付かず!
子供の亡くなったことに大きなショックで立ち直れなかったのでしょう・・
母も堪えて、この先の長男の音次郎を育てなければなりません。
親父の職業は戦争から帰ってから下駄屋をしていた。
(蔦屋・・下駄屋の店先の親父)

小さな二階屋で2階の小さな4畳半、・・

親父は酉年でお店に鶏を飼っていた。

そして子供好きで私達兄弟を可愛がって遊んでくれて幸せな生活だったようです。

・・・・
まだ庶民生活は下駄をはく時代です。
チンドン屋迄雇って、下駄の大安売り。商売は下手ではなかった。
お客さんの対応も良く、そこそこの売り上げは有ったのだが・・
子供の死で人間が変わってしまったのが親父!
母は生活の為に、下駄屋を頑張ったのだが・・
親父も何とか立ち直ろうと下駄のハナゴをすえた。
でも一時的で斜前の酒屋に通う次第!
わずかな売り上げで酒飲みして、お店の手提げ金庫で眠る始末。
こんな光景を見ていたのが幼稚園児の音次郎です。
人間の一生なんて分からないもんだ・・・
私の母でさえも、戦前は横浜吉田町の海苔問屋のお嬢さん育ちだったようで・・

終戦後はモヌケノ殻からの貧乏スタートです。
戦争によって一瞬にして人生が変わるんです・・・
戦争は絶対ダメです❕・・人生を狂わせます。
いつまでも平和に暮らせるように・・


終戦後の生まれですから、乞食も沢山いました。
食うのに必死でタライやヤカンの修理屋もいた。
穴の開いた鍋をリベットで修理する商売です。

傘の修理屋もいた。爆弾あられの商売。・・
バタヤと呼ばれる人もいたよ・・
これは背中に竹で編んだ籠を背負って、
ハサミ棒でゴミ箱やら落ちているものを籠に入れて生活する人。
これは乞食のようなもんです。
まだまだ話せばキリがない程、可笑しな商売も有りましたね。
・・・
可哀そうに思ったのが・・・
戦争で片足とか腕を失くした人、
こう言う方たちは路上や駅や地下にいましたね。
軍服を着て2~3人、アコーディオンやハーモニカー、歌う人・・

前に空き缶を置いて、「お金を恵んで下さい」と言う事なんでしょう・・
この光景も子供ながら記憶に有ります。
・・・・
子供の遊びと言うと・・
幼稚園頃は「かくれんぼ」「石けり」「縄跳び」「缶蹴り」が主流の遊び。

これが小学生になるとまた、遊びがまた違います。
この続きは次回「音次郎物語ー4」で書いてみましょう・・・


まぁ~、この頃の記憶は殆ど薄れているが微かながらを物語りとしました。
一部の画像は借り物でコピーしました。

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