🎸”蔦音次郎”のギタ・キチ・日記

気まぐれギター演奏の日記を書いて更新して行きます。

音次郎物語-16. バラック屋敷の解体・・


(ギター演奏を聴き乍、グリムの森を歩きましょう・・)


早いですねぇ~・・もう12月ですよ!
今年もコロナで思うように行動できなかった1年でした。
来年は果たして明るい1年が訪れるのか?・・
コロナ・オミクロン株とやらが出現した。‥これも心配の種です。
やっと感染者が減ってきたのに・・
これからクリスマスの年末にかけ、人の動きが活発になる時期です。
正月の明けは、どうなっているのか?・・不安はある!
得体の知れないオミクロンとか・・どこまで強力なのか・・注視している。
来年早々に3回目のワクチン接種が控えている。
「毒を打って毒を制す!」って奴だ!
身体の中身はワクチンの液体人間になってしまいそうだ!
来年こそはマスクに頼る生活とはオサラバしたいと願ってます。
さて、前談はここ迄にして‥
音次郎物語16話をしましょう・・・
物語は1961年にスリップします。
いよいよバラック屋敷とオサラバすることになった。
私の母の姉(伯母)さんが、バラックを解体して新築する話です。
家が新築するまでの間は、伯母の住んでいる生麦に住むことになりました。
寺尾の中学校まで通学するのに市営バスと臨港バスを利用します。
約3ヶ月はバスでの通学でした。
生麦の伯母の家も小さな屋敷でしたので、狭い部屋で寝泊まりしました。
バラック小屋は短時間で潰され、即、基礎土台と建前の準備に入りました。
棟上げ式の時は、大工棟梁など職人に酒が振舞われて賑やかな夜を記憶してる。
(写真はバラック小屋の跡地に新築中)


もうバラック屋敷は無い!・・・
バラック小屋と言えども、私には居心地が良かったのです。
今でも、あのバラック生活が頭の片隅にあり、懐かしい思い出でもある。
糠漬けに手を突っ込んで,ナスやキューりをお婆ちゃんの隙を見て盗み食いした。
あの味・・忘れられない。お婆ちゃんの味噌汁、ぬか漬け、朝の朝食が美味しかった❣
狭いバラック生活で不便さはあったが、居心地は最高!・・
新しい家が完成した。狭い30坪の土地に2階建てのお家です。
1階は玄関に廊下、6畳と4畳半、台所は8畳ぐらい、洗面所と風呂場、トイレ、物置。
2階は廊下を挟み、6畳と8畳の洋室。階段は三尺の狭い階段だ!
伯母さんの建てた家に伯母と一緒に暮らすのですから、
私、音次郎は伯母とはいえ、居候の様に肩身の狭いおもいでした。
伯母達と一緒に暮らす生活の始まりです。
写真は(伯母さんとの生活:馬場町の神明社にて撮影)母の姉になります。

お婆ちゃん、お爺ちゃん、私、伯母、従兄夫婦、従姉の次女、と七人での生活です。
伯母の長女と三女は別居で週一回に来ます。
伯母は綺麗好きで、掃除キチガイでした。
廊下の板はピカピカです。
リンレイ・ワックスでピカピカに磨くので、階段は足を取られて滑りそうになります。
私も日曜日は掃除の手伝いをさせられました。
掃除の指導は厳しくて、気に入らないと文句タラタラ言われて、小さくなってましたよ。
食事も遠慮して、思うように手が出せなかったですね!
これが、何故か自分で惨めな気分に掻き立てられましたね。
伯母さんは肩こりで、夜は伯母の按摩をさせられた。
アンマもオサスリ按摩ではダメ伯母さんで、強く揉まされました。
これを毎晩30分も按摩するのですから親指とか腕が疲れて辛かったですねぇ~・・
伯母はこの時ばかりは調子が良くて、私の按摩を褒めるのです。
按摩が終わるとお小遣いを50円くれたり、「お菓子を食べな」なんて言うんだよね。
まぁ~辛かった!・・・自分の子供には按摩を頼まない伯母には、ムカつきましたよ。
母親と離れて暮らしている音次郎は新しい家では伯母に気を使いましたね。
伯母は長唄の師匠ですので、教育は手厳しいです。
飴と鞭の使い分けが上手で、私もその手に嵌ったのだ!
時には優しく・・時には厳しい・・


お婆ちゃんは、私の事を心配して伯母に言い聞かせている姿を耳にしてます。
お婆ちゃんにしてみれば伯母は娘ですから、気になる事は娘に厳しく言ってましたね。
お婆ちゃんは孫が可愛かったのですよ・・

写真は(お婆ちゃん)

お爺さんは、働き者で露店商売は続けていました。
学校の帰りに露店の東寺尾迄寄る日も多々ありました。
金魚のタライ桶が外に有ります。
             ☟写真(タライ桶の金魚と水草)



辛い事ばかりは有りません。
皆で笑い、皆で食事をしてテレビを見ながらお茶とミカンを食べながら生活したのです。



 

(写真はバラック小屋を壊した場所に新築した家にて)


いよいよ音次郎物語はもう少しで終了します。
次回17話は「水道タンク」の思い出を語ってみよう・・

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