YOKOHAMA 42回横浜開港祭の日
横浜には昔の仲間友が沢山いる。・・今どうしているか?・・
昔仲間と会ってみたいと思いますね・・
仲間も結婚して子供が出来てから、皆連絡が自然と途絶えてしまいました。
今は極少ない仲間とは電話でお喋りしている程度で、それでも中々会えないですね。
皆爺さんになったからやむをえないです。
鶴見、東寺尾生まれ、馬場育ちの音さん、
今はこの町にも鶴見音頭、寺尾奉行音頭、なんて盆踊りが作られている。
馬場育ちの音次郎、この貯水池が癒しの場所だった。芝生に寝転んで空を眺めていた。
今も昔も貯水塔は変わっていない。この塔が子供の頃の迷子にならない目印でした。
小学年の頃からこの場所に来てました。家から歩いても1分の場所でしたね。
この塔、男性のシンボル塔に見えるが「ネギ坊主」の愛称だとか・・
悪ガキの頃は立ち入り禁止を無視して、ここに仲間と侵入してましたね。
今は谷間に住宅が立ち並んでいるが、この谷間は雑木林で、この山で遊んだのだ!
今もこの場所に昔住んでいた場所に本宅として住んでいる。
山の中の細い道に5軒の家が有り、その一軒のボロ家で育った。
夏は虫、特に蛾が家の中に侵入する。夜は静かで裸電球1つ、蚊帳に入って寝たものだ。
窓からは、いつもシンボル塔が見える。俺様の庭みたいな憩いの場所だったのです。
鶴見配水池配水塔 横浜市鶴見区/Tsurumi Distributing Reservoir Water Tower in Yokohama-Tsurumi, Kanagawa, Japan
今日は6月3日・・横浜開港祭の日だね。・・
6月2日と3日に盛大に開催されるんですね。
昨日の台風接近に伴い天候が大荒れでどうなったか?・・・
晴れていれば夜は3000発の花火大会で賑わえたのでは・・
昨日の荒天でどうなったか?・・花火とかパレードは中止かな?
今日も雨でNG・・・横浜市民の皆様には残念ですね。
横浜市歌の歌詞 (作詞:森鴎外)
☟の歌詞を解り易く読み取ると・・☟この様な読み取りとなります。
わが日の本は島国よ わたしたちの日本は島国です
朝日かがよう海に 朝日が輝く海に
連りそばだつ島々なれば 連なりたつ島々ですので
あらゆる国より舟こそ通え あらゆる国から船がやってきます
されば港の数多かれど 日本には港の数は多いですが
この横浜にまさるあらめや この横浜に勝るところはありません
むかし思えば とま屋の煙 昔のことを思うと、漁師の小屋から煙が
ちらりほらりと立てりしところ ちらほら立ち上がるだけだったのに
今はもも舟もも千舟 今は幾千幾万もの船が横浜港にやってきます
泊るところぞ見よや 停泊する姿を見てごらんなさい
果なく栄えて行くらんみ代を これからますます栄えて行くであろう時代を
飾る宝も入りくる港 象徴する港です
ここに歌われる歌は横浜市歌として、市民に親しまれている歌です。
「よこはまアラメヤ音頭」と「浜っ娘音頭」なんて、踊りが作られて、
毎年、港祭りは賑わっているようで・・最大の盛り上がりです。
アラメヤとは・・?意味を知っていますかぁ~・・?
港では「この横浜にまさるところはありません」と歌っています。
歌詞では「この横浜にまさるあらめや」・・この歌いまわしのところです。
横浜港の開港50周年記念祝祭 1909年(明治42年)にて披露されて以来、
市民に歌い継がれています。
この歌、小学校時代、中学時代、と学校で歌わされてきた歌で、
歌詞は今も忘れていません。
作詞は森林太郎(森鴎外)、
作曲は、当時東京音楽学校の助教授だった南能衛(よしえ)氏です。
森鴎外は小説「舞姫」「雁」「山椒大夫」「高瀬舟」で 知られていますね。
この森鴎外が横浜市歌の歌詞を作ったとは、意外に意外・・
歌詞も良ければ作曲も、お見事! 横浜で育った人は全員歌っています。
現在も市立の小学校では、校歌とともに歌唱指導されています。
開港記念日(6月2日)や卒業式、
市大会などの行事で、演奏・斉唱されています。
開港100年祭の時にも100年祭の歌がありましたね。
開港100年祭の時は小学六年生でした。
100年祭は、お婆さんと,港祭りのパレードを見に行きましたよ・・
横浜開港は1859年(安政6年)です。
毎年のように横浜開港祭が近づくと親戚から電話で知らせてくれる。
「横浜に遊びに出てきなよ・・」と声が掛かります。
なかなかで出無精で横浜に行かない。